アグラ城。ムガール帝国第3代皇帝アクバル帝から建設が始められ、霊廟タージ・マハルを築いた第5代シャー・ジャハーン帝よって築き上げられる。その後息子に幽閉され、この塔内から7年間最愛の妻ムムターズ・マハルの霊廟タージ・マハルを日夜見続けこの世を去ったと言われている。
「私を離さないで」は、イギリスの作家カズオ・イシグロの小説。海外で映画化されて昨年公開されていたでしょうか。そして、TBSでドラマ化されました。脚本も演出もイメージを壊さず、映画のように無駄がなく伏線のはりかたもよく…って、外側の話ですね。
人間が病気になった時に臓器を提供するために育てられるクローン人間の子供時代から、提供し終了に至るまでの話。他の寄宿舎では余り教育は熱心ではないというのが話の中でわかるが、主人公たちは、芸術に熱心で、心という授業もある学院で育ち、ある時、自分たちが提供という使命をもつ天使であると校長先生に聞かされる。そして、卒業し数年の時間を与えれその後介護人になり、連絡が来たら提供者になる。逃げたり、問題行動を起こしたら、即解体される。本当に愛し合っていると認められれば3年の猶予がもらえると主人公たちは希望をもつが。
生命の期限を与えられた中どう生きるか。夢がかなえられなくても夢、希望を持つことが大切と主人公の1人が語る。
生命の期限を如何に生きるかを考えるより、私は別のことでずっと心を奪われていました。提供者(クローン)と被提供者(人間)の差。私たちが生まれる時、親や性別を選べないのと同じく、彼らはクローンを選んで生まれてきたわけではない。結果クローンとして生を受けたけれど心も魂も持っている。同じように生を感受しているのに一方的に身体を奪われ終了させられる(死を迎える)。私たちが親や性別を受け入れて生きているように、一部を除いて皆彼らの運命を受け入れている。私は、終了させられるなら心を持つ方が辛いのではないかと思ったり。子供を洗脳させるように映った「使命」「天使」という言葉も、心を持った存在であるからこそ、最期の瞬間それが自分を納得させる唯一の助けになったのではないかと思ったり。校長先生が空の箱を子供たちに渡し、宝箱として大切なものを容れさせていく。親姉弟もいない子供たちにとって、宝箱の中身が自分の歴史、思い出。身体は奪われても記憶は個人として奪われないもの。絵を描く、芸術も自分であることの証明…(校長先生のもっと深い意志もあるのですが)。最初の頃の話も全て最終話に向けて一つ一つその意味に光があたり、一語一句聞き洩らさない、映像も目に焼き付けておきたいと思えるものでした。
最終話近く、主人公が私たちに魂がないというのですかと言った処、元校長先生が「手放すものですか、人間が便利に使っているものを手放すわけないでしょう。認めるわけありません」と。
この言葉も私は刺さりました。
中盤、主人公が介護する提供者がいいます。主人公たちの話を聞き、提供で手術室に入る前に「最後(最期)は、よかった、いい話で終わりたいよね」と。(柄本佑さん素晴らしかったです 泣)
そうです。命の期限を自分が決めるのではないのですから、いつ終了になっても良いように良い話を増やして毎日生活したいものです。
最期に生きててよかったって思えることは心安らかに死んでいけることでしょう。
最終話終わった翌日自分の気持ちを整理する意味で書いてから、なんだか朝日新聞で同じようなニュアンスの言葉を宗教者が語っていたり、このブログでもずいぶん前に書いたマハトマ・ガンジーの言葉が載っていたり、メッセージは繋がっていると感じました。
そして、「朝がきた」は女性の制約があった時代、それを超えて九転び十起きし前に進んでいく主人公。彼女を支える人たちと、彼女に前を照らす人たち。恵まれて、元気がでます。
「私を離さないで」で寄宿舎の校長先生が重大な話をする講堂と、「朝がきた」で日の出女子大学校の設立であさが祝辞を読んだ講堂と同じ建物でした。話の内容で見え方も180°異なりました。

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