ブラジル産小さな水晶クラスター、透明度高くまた虹も沢山でています。
さて、ETV特集「暗黒の中かなたの光明 知の巨人・梅棹忠夫がみた”人類の未来”」をみました。文明学者梅棹忠夫氏の未刊の書「未来の歴史」(だったか・・・書名が記憶から抜け落ちています)、彼が想像する未来は悲観的な方向だったため書かなかったのか。目次だけが残されており、そこにはエピローグ 暗黒…最後に光明とあり、荒俣宏氏が、生前の彼と親交のあった人々を巡りその光明とは何なのかを探るものでした。
梅棹氏は数多くの民族をフィールドワークで調査し、人間の共通する特徴は知的探究心であり、知的探究心=人間の業(やめろといわれてもとめられないもの)とした。業は人類を破滅へと向わせるので、業を回避しなくてはならない。回避させる鍵として彼の残した言葉が「理性対叡智」。暗黒を抜け出す光明=叡智とは何か。番組では、右脳対左脳つまり左脳の理論に対し右脳の心・情念であり、制度と装置対ひとりひとりの主体であるとした。宗教学者の山折氏は西洋型はキリスト教のノアの箱舟に代表されるように多数の犠牲の上にわずかな生き残り、東洋型は法華経の比喩品にある三車火宅にある子供全てを助ける思想とした。
荒俣氏は大勢の心をひとつにして行っている節電で照明を落とした原宿の店が以前煌々と店内を照らしていた時より暗闇から明るく見えることが光明と結んだ。
叡智とは何か。
私は、叡智とは自然の法を悟ることだとと感じています。
丁度数日前、叡智の守りびとも読み直してそう思っていたところでした。
ETV特集を見ることに繋がっていたのかと納得。
人間の業を留まらせる唯一のもの。
またまた本の抜粋で恐縮です。
「叡智の守りびと」築地書館刊
オレン・ライオンズ(イロコイ族・オノンダガ国)の言葉から
人間が作った法の他に創造主の法がある。これを「自然の法」と呼ぶ。自然の法は人間の法と違って絶対だ。自然の法を犯した者は偉大なる力によって打ちのめされるだろう。そこには裁判官もいなければ陪審員もいない。弁護士も法廷もない。逃げることもできない。もし自然の法を犯したりすれば、間違いなく罰せられる。それもこっぴどく。
自然の法のひとつに、人間はあらゆるものを汚すことなく、清く保たなければならないというのがある。中でも水を清く保たなければいけない。水の清さを保つことは、生命の法の中でも最も重要な法のひとつだ。水を汚すことは、生命を破壊することなんだ。これが私の言う常識というものだ。(←インディアンには秘密も謎もなくあるのは常識だけだという言葉から)
誰にだってわかることさ。母なる大地に生きるあらゆる生命は、清らかな水によって生かされているのに、人間はありとあらゆるゴミ、汚物、毒を水に垂れ流している。常識では全く考えられないことだ。国や自治体の連中が水を汚染してもいいなんて法をつくってもダメなんだ。人間の作った法なんて、自然の法にとってはどうでもいいことなんだ。そのうち自然の法が人間を罰するさ。誰もこの罪からは逃げられやしない。自然の法を犯してうまいこと逃げようったって無駄なことだ。水を殺せば水に生かされているすべての生命を殺すことになる-もちろん水を殺した人間自身をもな。それが自然の法というものだ。それが常識というものだよ。
自然の法のもとでは生命はすべて平等だ。これはわれわれインディアンの哲学でもある。人間は生命を尊ばなければならない。自分の生命だけを尊んでいてもダメだ。自然の法を犯すことなく生きていくためのカギは「尊ぶ」ことだよ。人間が地球を敬わない限り、人間は地球を破壊する。すべての生命を自分の生命と同じぐらいに尊ばなければ、人間は破壊者、殺人鬼になってしまう。人間は時として自分たちが地球の支配者にのし上がったのだと考える。だが、それは間違いだ。人間は全体の一部でしかない。
人間の役目は、自然を開発し、利用することではない。
人間の役割は、自然に使え、自然が犯されないよう見守ることだ。
人間にあるのは力ではなく、責任なんだよ。

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