明鏡止水

 

自分の観念と実存が一致しない デカルト

我思う、故に我あり

デカルトの方法的懐疑です。

考えることが人間の証明のように捉えていらっしゃる方もいます。

が、「我思う故に、我あり」は、考えるからこそ人間であるということを言っているわけではありません。

 

自分の観念(表象)は、外部の実在とは一致しない。

逆に、観念から実在を判断することは間違いを伴う。

全てが虚偽だとしても、そのように意識している我だけの存在は疑いようがなく、自分は何故ここにあるのかと考えること自体が自分が存在する証明であると思う。

その証明を「我思う、ゆえに我あり。」と言ったのです。

 

ここに存在があるだけ。

そして、このデカルトの時代でも、観念と実在が一致しないと考えられていたのです。

今の時代でも、どれだけ観念で生きている人が多い事でしょうか。

 

覚醒することはつまり

この、自分の観念(表象)を手放すこと。

手放すという行為より、無くなるという感覚です。

無くせば、外部の実存とのずれはありません。

外部の実存を大きな愛のエネルギーで包み込むだけです。

 

自分の不安や恐れなど観念の世界に囚われていませんか?

 

覚醒することは考えなくなること

ああしたい、こうしたい、こう思っているかしら、なんて思わなくても、

相手の真意はわかるし、望みは叶う。

 

不安に左右されてあれこれ考えなくても、全てが完全な状態で進んでいきます。

 

考えている状態は、自分は船舶の免許を持っていないのに無理やり船長として航海している状態です。

考え通り上手くいかないと嘆いても当然ですよね。

もともと、船長の技量はないのですから。

 

覚醒すれば、人間、動物の真意がわかるだけではなく相手の問題を解決するヒーリング技術も体得できるのです。

あなたが覚醒したいのは何故でしょうか。

癒したいのは誰でしょうか。

 

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