他力 誤解していました。
アッサラームアライクム。
スーフィーティーチャーのサラームです。
昨日、NHK「こころの時代~宗教・人生~」再放送で、シリーズ歎異抄に出会う 無宗教からの扉4を見ました。
鎌倉時代法然が唱えたもの。
他力。
他力本願と一般には自分で努力しないとネガティブなイメージで捉えられていますよね。
宗教上の他力とは、悟りを開く、真理に近づくのに、
自らあれこれ塩梅しない、やらないこと。
「自力作善の人はひとえに他力に頼らず」
自分であれこれ修行にエネルギーを注ぐことは、阿弥陀仏の本願を得られない。
この自分でできる=自分のものの基準が大切=エゴが、悟ることを邪魔をするということ。
自分が特別な人ではなく、自分の愚かさに気づく、自分がどういう存在か。
ただの平等なひとり。
そこを腑に落として、ただ阿弥陀仏を唱える、ということ。
そもそも、自分が心の底から熱望もしないで、ただ念仏を唱えて救われるということではない。
覚者=悟った者=仏(ぶつ)
浄土は仏(ぶつ)になるための最高の環境として、存在する。
本来、生きている間に役にたつこと。
人々に慈悲、あらゆる存在を救うために仏(ぶつ)になる。
わぁ、神が阿弥陀仏になるだけで、SUFIと同じではありませんか。
私が、以前から違和感のあった、「念仏を唱えれば罪を滅する」
滅罪の念仏は自力であって、本来ではない。
利害の手段ではない、自我の欲求を満たすものではないと、断言。
浄土真宗の本質がわかったように思います。
阿満利麿先生のお話が目から鱗でした。
感謝申し上げます。
記憶がなくならないうちに、あと少し、感じたことを書きたいと思っています。
あなたに平安が訪れますように。
うちは菩提寺が臨済宗なので、禅宗については学んでいたのですが、浄土真宗については、歎異抄も読まずにいました。